「うちの業界は特殊だから、AIはまだ早い」。この一言が、予算の不足よりも技術の限界よりも多くのAI導入を止めています。しかし検討を一歩進めてみると、業務の大半は業種を超えて驚くほど同じ形をしています。経理は仕訳をし、営業は見積を出し、誰かが議事録を書きます。導入の現場での実感としての目安ですが、本当に特殊なのはせいぜい2割で、残りの8割は他社と同じ構造です。「うちは特殊」は事実の記述ではなく、検証されていない思い込みである場合がほとんどです。本稿では、この思い込みの正体を確かめたうえで、特殊な2割を見極めて共通の8割から始める方法を示します。
その思い込みには、四十年以上前から名前がついています
「自分たちの領域は自分たちが一番よく知っている。外から来た知識は、うちには当てはまらない」。この心理には研究上の名前があります。NIH症候群(Not Invented Here)です。1982年、ラルフ・カッツとトーマス・アレンは、50の研究開発プロジェクトチームを調査した論文をR&D Management誌に発表しました。外部で生まれた知識や成果を過小評価して退ける傾向が、チームの成果を下げていることを確認したのです。
とりわけ重要なのは、この傾向が「チームの固定期間」と結びついていた点です。同じメンバーで長く固定されたチームほど外部との情報のやり取りが減り、自分たちの知識を過信し、成果が落ちていました。カッツらの調査は研究開発チームを対象としたもので、射程はまず組織内のチーム単位です。ただ、同じ構図は一社単位でも現れます。同じ顔ぶれ、同じやり方で長く回ってきた組織ほど、「外のやり方はうちに合わない」という感覚が強くなるのです。「うちの業界は特殊だから」という言葉は、業界の事実というより、この心理が口にのぼった形だと考えたほうが実態に合います。
特殊なのは「言葉」であって、業務の形ではありません
たしかに、業界ごとに帳票の名前も単位も商慣行も違います。建設の「出来高」、製造の「歩留まり」、卸の「掛率」。言葉だけ聞けば、互いにまったく別の世界に見えます。しかし一枚めくって業務の形を見ると、驚くほど同じです。注文を受け、手配し、納め、請求します。取引先の支払い能力を見きわめます。問い合わせに答え、会議の記録を残します。呼び名が違うだけで、構造は業種を超えて共通しています。
特殊に見えやすいのには、構造的な理由もあります。経営者や古参の担当者ほど、業務の例外や歴史的な経緯を細部まで知っています。内側から見れば見るほど、他社との違いばかりが目に入るのです。一方で外から見る人には、共通の骨格が先に見えます。つまり、業務に詳しい人ほど「うちは特殊」と感じやすい。知識の深さと判断の正しさが逆方向に働く、この非対称を知っておくだけでも見え方は変わります。
「以前に汎用ツールを入れて失敗した。やはりうちは特殊なのだ」という声もよく聞きます。しかし失敗の原因をたどると、多くは自社の用語や帳票をツール側の言葉に置き換える手間を飛ばしたことにあります。それは言葉の翻訳を怠った証拠であって、業務の構造が特殊だった証拠ではありません。なお本稿は、現場がAIに抵抗する理由が合理的かどうかという話ではありません。導入を検討する側、つまり経営の判断そのものに入り込む認知の偏りの話です。
本当に特殊かどうかは、3つの質問で確かめられます
思い込みかどうかは、印象ではなく質問で仕分けられます。業務ごとに次の3つを当ててみてください。
第一の質問は「その業務を、他社の人に説明できますか」です。異業種の知人に10分で説明でき、相手がうなずけるなら、構造は一般的です。「まずうちの言葉を覚えてもらわないと説明できない」となるなら、特殊なのは言葉であって業務ではありません。
第二の質問は「例外は月に何件ありますか」です。感覚ではなく数えます。処理件数のうち例外が1割未満なら、本体は定型業務です。「例外だらけ」という感覚は、印象に残った数件を過大に記憶しているだけの場合がほとんどです。
第三の質問は「特殊なのは手順ですか、判断基準ですか」です。手順は他社と同じで、値引きの許容幅や与信の目線といった判断基準だけが自社固有なら、その基準を書き出せばAIに渡せます。基準が言葉になっていないだけで、業務が特殊なわけではありません。
3つとも通れば、その業務は共通の8割に入ります。1つでも引っかかったものだけを「特殊の候補」として残してください。候補に残るのは、多くの場合で業務全体の2割前後にとどまります。
残った2割は、無理にAI化せず守るべき強みです
「実際に特殊な業務はある」という反論は、その通りです。長年の顧客関係に根ざした受注前の調整、独自の品質基準による検査の最終判定、経験者にしかできない目利き。3つの質問を通しても残るものは確かにあります。だからこそ結論は「すべてをAIに」ではありません。本当に特殊な2割は、多くの場合その会社の競争力の源泉そのものです。急いで自動化する必要はなく、むしろ人の時間をそこへ寄せるために、共通の8割を先にAIへ渡すのです。
見落とされがちな利点がもう1つあります。すべてを「うちは特殊」で包んでいる間は、本当の強みがどこにあるのかも曖昧なままです。2割を名指しできた会社は、自社の強みを言葉にできた会社でもあります。この仕分けそのものが、経営の棚卸しになります。
共通の8割には、決まった入口があります
では8割のどこから入るか。業種を問わずほぼ同じ形をしており、事例と道具が最も蓄積されている業務類型から選ぶのが定石です。経理なら領収書の読み取りと仕訳の下書き、受発注なら注文書やFAXのデータ化、問い合わせ対応なら、よくある質問への回答の下書きです。会議なら録音からの議事録作成、契約なら定型条項の確認、採用なら応募者への連絡文面の作成です。いずれも「量が多く、形が定まっていて、間違いを人が確認できる」という共通の性格を持っています。最初の1つには、翌月に成果を数字で確かめられる業務を選ぶと、続きの判断が楽になります。
参考にする事例も、同業に限る必要はありません。むしろ異業種の事例のほうが、言葉の違いに惑わされずに構造の同じさに気づけます。導入の現場で繰り返し見てきたのは、「うちの業務は特殊で」と始まった聞き取りが、30分後には「言われてみれば、よそと同じですね」で終わる光景です。
まず30分で、業務の仕分けを始めてください
最初の一歩は30分で踏み出せます。経営者自身か、業務全体を見渡せる管理部門の責任者が行ってください。まず10分で、自社の業務を10個、ふだん使っている言葉のまま紙に書き出します。次の15分で、各業務に先ほどの3つの質問を当て、「共通」「特殊」「不明」の三択で印をつけます。迷ったら「不明」で構いません。最後の5分で、「共通」に入った業務のうち件数が多く判断の少ないものを1つ選び、担当者に「この業務、他社ならどうやっていると思うか」と聞いてみてください。翌日には、その1業務について異業種の導入事例を1つ探します。ここまで進めば、検討の問いは「うちは特殊か」から「どこから始めるか」に切り替わっています。
「うちの業界は特殊だから」と言いたくなった瞬間こそ、仕分けの合図です。その一言で検討を閉じるのではなく、3つの質問で業務を仕分け、2割の強みを名指しし、8割の入口から1つ選んで動かしてください。特殊性は導入をやめる理由ではなく、守る場所を決めるための情報です。
(出典注:ラルフ・カッツとトーマス・J・アレンは論文「Investigating the Not Invented Here (NIH) Syndrome」(R&D Management誌、1982年)で、50の研究開発プロジェクトチームを調査し、長く固定されたチームほど外部との情報交換が減り、外部由来の知識や成果を過小評価して成果が低下する「NIH症候群」を確認しました。本稿はこの知見を、組織が外部のやり方を退ける認知の偏りの説明として参照しています。)

