「AIで仕事が楽になれば、残業は減るはずだ」。この期待は自然ですが、歴史は逆の答えを返してきました。百年前、経済学者ケインズは「百年後の孫の世代は週15時間しか働かない」と予言しました。豊かさの予測はほぼ当たったのに、労働時間の予言は外れたままです。生産性の向上は、放っておいても労働時間の短縮には変わりません。浮いた力を意図して「働き方の制度」に変換した会社だけが、その果実を受け取れます。そしていま人手不足の採用市場では、それがいちばん効く投資になり得る、というのが本稿の主張です。
週15時間労働の予言は、豊かさが当たったのに外れました
1930年、ジョン・メイナード・ケインズは「孫たちの経済的可能性」という短いエッセイを書きました。世界恐慌の入り口という暗い時代に、彼はあえて楽観を語ります。技術の進歩により、百年後、つまりおおよそ2030年には、進んだ国々の生活水準は当時の4倍から8倍になる。経済問題はほぼ解決し、人々は週15時間も働けば足りるようになる、と。
前半の予言は、驚くほど当たりました。先進国の生活水準は、彼の見立てた幅に収まる程度まで実際に伸びています。外れたのは後半です。労働時間はたしかに減りましたが、多くの国でいまも週40時間前後が標準であり、15時間の足元にも及びません。豊かさは実現したのに、余暇は実現しなかった。この非対称こそ、AI導入を考える経営者がいま読み直すべき教訓です。
つまりこういうことです。生産性が数倍になっても、労働時間はそれに比例して減りませんでした。「楽になる技術」と「楽になる働き方」のあいだには、百年たっても埋まらなかった溝があります。
予言が外れた理由は諸説あっても、「自動では減らない」ことだけは確かです
なぜ外れたのか。2008年に刊行された論集「Revisiting Keynes」では、著名な経済学者たちがこの問いを検証しています。挙がった説明はさまざまです。欲望は満たされると次の欲望を生み、消費の水準は際限なく切り上がる。他人との比較や地位の競争が、稼ぎ続ける理由をつくる。豊かさの分配が偏り、余暇を選べる層が限られた。仕事そのものが意味や居場所になっている。論者によって力点は違い、単一の正解はありません。
ただし全員が暗黙に共有している事実が一つあります。生産性の向上は、放っておいても余暇には変わらなかった、ということです。浮いた力は、消費の拡大や新しい仕事に吸収されました。
会社の中でも、同じ力学が働きます。別稿で、効率化はむしろ仕事を増やす方向に働くと論じました。資料づくりが速くなれば資料は増えます。また、浮いた時間は使い道を決めて初めて利益になる、とも論じました。本稿はその続編にあたります。使い道の選択肢の一つとして、「労働時間の短縮・休暇・学習時間」という制度への変換、いわば逆張りの投資を検討する回です。導入の現場で繰り返し見てきたのは、効率化の成果が「なんとなく忙しさは変わらない」という感想の中へ溶けていく光景です。宣言しなければ、配当は霧散します。
浮いた力は「生産性の配当」として、三つの原則で制度に変えます
浮いた時間を株式の配当になぞらえて、「生産性の配当」と呼ぶことにします。配当は、支払いの原資と受取人を決めて初めて成立します。原則は三つです。
先に宣言する。 どの業務の効率化分を、誰の働き方に回すのかを、効率化に着手する前に決めて社内に告げます。見積作成の自動化なら営業部門のノー残業曜日へ、月次決算の効率化なら締め明けの半日休へ、議事録の自動化なら週一時間の学習時間へ。自社に当てる問いは一つです。「この効率化の受取人は誰ですか」。答えが「会社」しかないなら、配当は宣言されていません。
小さく、書ける形で始める。 制度と呼べるのは、カレンダーや就業規則に書ける形になったものだけです。全社一斉の週休三日から始める必要はありません。特定の曜日のノー残業、閑散期に限った週4日勤務、四半期に一度の学習日。三か月の試行と明記して始めれば、撤回もできます。問いは「これは紙に書ける約束になっていますか」です。
実感を循環させる。 効率化が自分の休みや学びに化けた、という実感は、次の効率化への協力を生みます。逆に、楽になった分だけ仕事が積み増された経験は、改善への沈黙を生みます。問いは「社員は前回の効率化で、何を受け取ったと答えられますか」です。
この配当が特に効くのが、採用です。給与の高さで大きな会社と競うのは難しくても、「同じ給与水準で、残業のない会社」「閑散期は週4日の会社」は求人票の上で明確に目立ちます。時間という報酬は、設計次第でどの規模の会社にも払えます。しかも求人票に書けるのは、宣言され、制度として書かれたものだけです。「うちは実質的に残業が少ない」は候補者に届きませんが、「毎週水曜は全社ノー残業」は一行で届きます。制度化は社内の約束であると同時に、社外への広告でもあるのです。
「時短より成長に回すべきだ」という反論には、半分だけ同意します
浮いた時間があるなら、新商品や営業に回して売上を伸ばすべきではないか。この反論はもっともで、半分は正しいと考えます。大事なのは使い道を意図して決めることであり、成長投資は立派な使い道です。
それでも「全部を成長に回す」を既定の答えにしない理由が二つあります。一つは、宣言なき増産方針は結局、吸収と同じ結末になりやすいことです。もう一つは回収の読みやすさです。新事業の成否は不確実ですが、採用市場での「時間の魅力」は、応募数や定着率という近い指標で効き目を確かめられます。人が採れない、辞めていくことが最大の制約になっている会社なら、配当の一部を制度に回すほうが、成長投資より先に効く場面があります。
「人手不足で時短どころではない」という声にも触れておきます。順序が逆です。時間を返せる会社に人が集まり、さらに時間を返せるようになる。返せない会社は不足が続き、ますます返せなくなる。どちらの循環に入るかの分岐が、いままさに目の前にあります。なお、ケインズの議論は国レベルの話であり、個社の処方箋がそのまま書かれているわけではありません。ここから引き出せるのは「自動では減らない。だから設計する」という一点です。
まず三十分で、配当の受取人を一人決めてください
明日の三十分でできることは明確です。経営者自身が、直近で効率化した業務、またはこれから効率化する業務を一つ選びます。そして紙に三行書きます。どの業務の、どれだけの時間が浮くのか。その受取人は誰か。何という制度に変えるのか。次の朝礼か月次会議で、それを三か月の試行として宣言します。
百年前の予言は、技術を過信したのではなく、人と組織が放っておいても余暇を選ぶと楽観した点で外れました。AIはその二の舞を避ける機会を、いま各社に配っています。浮いた時間の受取人を決め、小さく制度に書き、実感を循環させてください。生産性の配当は、宣言した会社だけに支払われます。
(出典注:John Maynard Keynes “Economic Possibilities for our Grandchildren”(1930年)は、百年後に生活水準が4〜8倍になり週15時間労働が可能になると論じたエッセイです。Lorenzo Pecchi と Gustavo Piga 編 “Revisiting Keynes: Economic Possibilities for Our Grandchildren”(MIT Press、2008年)は、Stiglitz、Phelps、Frank、Freeman ら著名経済学者がこの予言の当たり外れとその理由を多角的に検証した論集です。)

