AIを導入した直後、現場の生産性はむしろ下がることが珍しくありません。これは失敗のサインではなく、多くの場合、計画に織り込むべき正常な経過です。新しい道具を使いこなすための学習、データや手順の整備、仕事の流れの作り直し——これらは決算書に載らない無形の投資であり、投資している間、目に見える産出は減って見えます。本当の問題は沈むことではありません。沈みの意味を知らないまま、いちばん損な時点で撤退を決めてしまうことです。本稿では、この現象を説明する「生産性Jカーブ」の考え方を紹介し、耐えるべき沈みと撤退してよい沈みを見分ける方法を示します。
生産性は「Jの字」を描きます
スタンフォード大学のエリック・ブリニョルフソンらは、この現象に名前を与えました。ダニエル・ロック、チャド・シバーソンとの共著論文「生産性Jカーブ」です。2018年にNBERワーキングペーパーとして公表され、改訂版が2021年に学術誌に掲載されました。蒸気機関や電気、コンピュータのような汎用技術は、それ単体では成果を生みません。業務の流れの再発明や人材の育成といった補完的な投資が必要で、その多くは形のない無形資産です。
無形の投資は、統計に資産として計上されにくいという性質を持ちます。そのため汎用技術の普及初期には、投資に時間を割いているぶん、生産性が実際より低く測定されます。回収期に入ると、今度は過去の投資の果実が上乗せされ、実際より高く測定されます。沈んでから立ち上がる軌跡がJの字に見えることが、名前の由来です。彼らの試算では、コンピュータ関連の無形資産を計上し直すと、2017年末時点の米国の全要素生産性は公式統計より15.9パーセント高くなります。見えない投資の規模は、それほど大きいのです。
ここで「それは国の統計の話で、自社には関係ない」と思われるかもしれません。たしかにこの論文の射程は、国レベルの生産性の測定です。しかし同じ構造は一社単位でも起きます。会社の管理会計もまた、学習や整備に費やした時間を資産に計上しないからです。導入期の試行錯誤は帳簿の上では費用にしか見えず、成果はまだ数字に出ません。見えている数字だけで判断すれば、結論は「AIを入れたら遅くなった」になります。
なお別稿「削れた時間で測るな」では、浮いた時間がどこへ行くかという、成果の行き先を論じました。本稿はその手前にある時間軸の話です。成果がいつ数字に現れるのか、現れる前の沈みをどう読むのかを扱います。
沈みの正体は三つあります
導入の現場で繰り返し見てきたのは、最初の数週間で「前より遅くなった」という声が上がり、経営がそこで継続か撤退かの判断を迫られる光景です。判断の前に、沈みの中身を分解する必要があります。増えた時間の行き先は、おおむね三つに分かれます。
一つ目は学習です。人がAIの癖を覚え、任せてよい仕事と人が握るべき仕事の境界をつかむまでの時間を指します。たとえば経理の仕訳補助では、当初はAIの提案を一件ずつ確認するため、手作業より遅くなります。しかしこの確認の積み重ねこそが、後で安心して任せられる範囲を広げます。
二つ目は整備です。AIが読める形に、データと手順をそろえる時間を指します。見積作成の支援を始めると、過去の見積が担当者ごとのフォルダに散らばり、項目の名前もばらばらだったことが露呈します。それを一つの台帳に集めて表記をそろえる作業は地味で、その間の産出はゼロに見えます。
三つ目は作り直しです。既存の流れにAIを継ぎ足すのではなく、仕事の順番そのものを設計し直す時間を指します。契約書の確認業務なら、AIに一次チェックを任せるために、確認項目の洗い出しや承認の位置の変更が要ります。電化の時代に、蒸気機関の配置のままモーターを置いた工場は速くならず、レイアウトを組み替えた工場が生産性を伸ばしました。ここが最も時間を食い、最も効く部分です。
三つに共通するのは、終わったあとに形が残ることです。育った判断力、整った台帳、書き直された手順書——いずれも決算書に載らない資産です。つまり沈みの正体は、資産づくりに時間を振り向けたことによる、一時的な産出減にほかなりません。
「いずれ上がる」は言い訳になりませんか
当然の疑問があります。Jカーブを持ち出せば、どんな失敗した取り組みも「今は投資期間だ」と言い張れてしまうのではないか、というものです。この懸念はもっともです。実際、成果の出ない導入が「いずれ上がる」の一言で延命される例は珍しくありません。
だからこそ強調したいのは、Jカーブの右側は自動では来ないという点です。沈みが反転するのは、沈んでいる間に資産が積み上がった場合だけです。積み上げを止めたまま漫然と続ければ、曲線は反転せず、沈んだまま横ばいになります。沈みを容認することと、点検せずに続けることは別物です。必要なのは、投資としての沈みと、単なる漂流とを見分ける物差しです。
耐える沈みと撤退する沈みは、四つの質問で見分けられます
物差しとして、次の四つの質問を毎月の点検に使ってください。
沈みの中身を名指しできますか。増えた時間が学習・整備・作り直しのどれに使われたのか、担当者が具体例つきで答えられるなら投資です。誰も説明できないなら、それは漂流の兆候だと考えてください。
手元に残るものが増えていますか。指示文のひな形、整った台帳、書き直した手順書など、担当者が明日交代しても残る形になっているかを見ます。すべてが個人の頭の中にしかない状態なら、沈みはまだ資産に変わっていません。
同じつまずきが減っていますか。見るべきは沈みの深さではなく、繰り返しの有無です。先月と同じ種類の失敗を今月もしているなら、学習が回っていません。失敗の種類が入れ替わっているなら、前へ進んでいます。
やめる基準を先に決めてありますか。観測する数字と期限を先に引いておきます。たとえば与信の一次判断なら、かかる時間を四半期ごとに測り、二期連続で改善がなければ設計を見直す、といった線です。基準のない継続は投資ではなく執着になります。
四つのうち三つ以上に「はい」と答えられる沈みは、耐える価値があります。二つ以下なら、いきなり撤退するのではなく、まず設計の見直しを検討してください。撤退を選ぶべきなのは、基準を置き直しても「はい」が増えない場合です。
まず三十分で、沈みの棚卸しをしてください
月曜の朝に三十分あれば、最初の点検はできます。経営者本人か、導入を任せている責任者が行ってください。
最初の十分で、AIを導入済みの業務を一つ選びます。経理の仕訳、見積の下書き、採用の書類選考など、導入から日が浅く「遅くなった」と感じているものが適しています。次の十分で、直近一か月に増えた時間を、学習・整備・作り直しの三つに振り分けてメモします。どれにも入らない時間が大半を占めるなら、それ自体が重要な発見です。
最後の十分で、手元に残った資産を箇条書きにし、先ほどの四つの質問に答えます。答えに詰まった質問が、次に手を打つ場所です。締めくくりに次回の観測日をカレンダーに入れ、直近の経営会議で「この業務は何月まで沈む予定か」を一言で共有してください。ここまでやれば、沈みは漠然とした不安の種から、期限つきの管理対象に変わります。
沈みを予算に書き込んでください
次にAIの導入を判断するときは、稟議や計画書に「沈む期間」を最初から書き込んでください。撤退基準と観測日をセットで定め、四つの質問で毎月点検してください。数字が下がった瞬間に問うべきは「やめるべきか」ではなく「何が積み上がったか」です。曲線のいちばん深い場所で降りる会社が、投資だけ払って果実を受け取れない、最も損な位置に立ちます。沈みの意味を読める経営だけが、Jの字の右側に到達します。
(出典:Erik Brynjolfsson, Daniel Rock, Chad Syverson「The Productivity J-Curve: How Intangibles Complement General Purpose Technologies」。2018年にNBERワーキングペーパー25148として公表され、改訂版が2021年に American Economic Journal: Macroeconomics 誌に掲載されました。汎用技術には業務の作り直しや人材育成といった無形資産への補完投資が不可欠であり、それが統計に計上されないため、導入初期には生産性が実際より低く、回収期には高く測定されると論じた論文です。)

