AI導入がうまくいくかどうかは、どのAIを選ぶかではなく、選ぶ前の足場づくりでほぼ決まります。そして、その足場の中心にあるのは、世間でよく言われる「データをきれいにする作業」ではありません。本当の急所は、現場でバラバラに使われている言葉を、機械が突き合わせられる一枚の「翻訳表」に変えることです。
導入の現場で繰り返し見てきたのは、高性能なAIを契約したのに成果が出ず、「思ったほど賢くなかった」と落胆する光景でした。けれど原因の多くはAIの性能ではありません。同じ部品を、ある人は正式名称で、ある人は略称で、ある人は型番だけで呼んでいます。こうしたデータを渡されても、AIはどう頑張っても一つの事実として束ねられません。
「正解集」ではなく「翻訳表」をつくる
多くの現場で名称を統一しようとすると、決まって「正しい呼び方はどれか」という議論になります。どれが本当に正しいのかを決めようとした瞬間、会議は長引き、誰も譲らず、プロジェクトは止まります。これは「正解を一つ選ぶ会議」だと捉えているから揉めるのです。つくるべきは正解集ではなく翻訳表です。翻訳表とは、「この略称も、この型番も、この通称も、すべて同じものを指しています」と機械に教える対応表のことです。基準となる呼び方を一つだけ便宜的に決め、残りはすべて「同じものの別名」として登録して残します。誰の言葉も否定されません。「あなたの呼び方を正しいと認めるかの会議」から、「みんなの呼び方を翻訳表に登録していく作業」に変わります。これが、最初に効く一手です。
「賢いAIなら、多少汚いデータでも読めるのでは」への答え
いま最もよく投げかけられる反論に、正面からお答えします。たしかに、賢いAIは略称や通称を「これはおそらく同じものだろう」と推測してくれます。問題は、その推測が外れたときに、外れたことがほとんど見えない点にあります。AIは堂々と、もっともらしく、別のものを同じものとして扱ってしまいます。そして出てきた集計表は、見た目には完璧に整って見えます。間違いが目立たないからこそ、かえって危険です。翻訳表があると、AIに「察してもらう」のではなく、「この別名はこの一つのものだ」という事実をあらかじめ突き合わせられます。賢いAIを否定しているのではありません。その推測力を、当てずっぽうではなく確かな土台の上で働かせるための備えが翻訳表です。AIが賢くなるほど、足元の翻訳表はむしろ重要になります。
足場づくりの三つの工事と、「どこまでやるか」
一つ目は、紙や手書きの記録を文字データに変える工事です。画像から文字を読み取る仕組みを使います。完璧な精度を求めず、金額や数量など間違うと判断を誤る項目だけを重点的に確認します。二つ目が、翻訳表をつくる工事です。基準となる呼び方を決め、別名を一つずつ紐づけていきます。三つ目は、これから先の記録の形をそろえる工事です。自由記入を減らし、選択式にし、よく使う値はあらかじめ初期値に設定します。入力する人の手間が減らなければ、新しいやり方は続きません。
では、どこまで整えればよいのでしょうか。目安はただ一つ、「AIに任せたいその問いに、いま答えられる状態になっているか」です。やりたいことから逆算し、関係する範囲だけを整えます。ただし一つ例外があります。本格導入の前に小さく回す検証は、足場が整うのを待たず先に走らせて構いません。小さな試行は、むしろ「どこを整えるべきか」を教えてくれるからです。
決裁者の方へ:この工事は、AIが無くても元が取れる
この足場づくりは「地味で予算がつきにくい」と敬遠されがちです。けれど、翻訳表を整え記録の形をそろえた時点で、人手による集計の精度と速度がすぐに上がります。呼び方のゆれが消えれば、同じものを手作業で突き合わせる照合の手間そのものが減るからです。AIをまだ一台も動かしていなくても、月次の集計が早く正確になり、探し物が減り、引き継ぎが楽になります。この工事は、AIへの投資である前に、足元の業務改善として単独で元が取れます。なお業種が違っても、言葉のゆれを翻訳表で束ね、問いから逆算して整える骨格は変わりません。ただし何が急所かは現場ごとに違うので、最後は自分の現場で確かめてください。
まず三十分、試してみてください
業務を一つ、担当を一人、答えを出したい問いを一つ、関係する記録を一種類だけ選びます。その記録を開いて、同じものを指しているのに呼び方が違う箇所と、書き方がバラついている箇所を、十行ほど書き出してみてください。その十行を、左に基準の呼び方、右にその別名という二列で並べれば、それが最小の翻訳表です。先に問いを立て、その問いに答えられるだけの土台を、翻訳表を中心につくる。順番はこれだけです。

